2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位

授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」

授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」

 

        第12回講義(2007年2月6日)

■小レポート結果■

水野さん:「自由であるべし」といわれた場合、私はよく明治期の主に女性達が職業選択や結婚に関して自分で選び始めた状況を思い浮かべます。」

入江のコメント:日本において女性が職業選択や結婚を自分で選び始めたのが明治からといえるかどうかはわかりませんが、江戸時代でないことは確かです。つまり、封建時代ではなく、近代的な資本制社会になって初めて、「自由であるべし」は市民の政治的な主張ないし法的な権利となったのです。

 「自由であるべし」という命令は、自由でない可能性を認めているように思われるので、この命令を政治的自由の意味で理解することが適切だと判断されるのである。なぜなら、自由でない可能性を認めるとき、道徳はそもそも不可能になるので、これを道徳的な命令として理解することが困難に思われるからである。

 

 

平野さん:「物理的に決定(人間は身体から出来ており、身体は物質であるから選択も物理的に決定)されているという議論を認めない形の非決定論について、もう少し詳しく教えてください。」

入江のコメント:まず次のことを確認しておきたいと思います。

確認1:自然現象については、次の4つの理解がありうるだろう。

(1)因果法則によって決定されている

(2)因果法則には限らない場合も含めて、何らかの法則によって決定されている。

(3)法則に限らない場合も含めて、決定されている。

(4)非決定である。

確認2:自然現象と意識現象の関係については、次のような立場が考えられる。(他にもありえるかもしれない。)

 (1)自然現象は存在せず、意識現象だけが存在する(観念論)

(2)意識現象は存在せず、自然現象だけが存在する(唯物論)

(3)自然現象と意識現象は存在し、相互作用する。(二元論)

(4)自然現象と意識現象は存在し、自然現象から意識現象への一方向の作用だけが存在する。(二元論)

(5)意識現象は、自然現象の随伴現象に過ぎず、自然現象から独立に存在するのではない。(随伴現象説)

確認3:意識現象についても、次の四つの理解が考えられる。

(1)因果法則によって決定されている

(2)因果法則には限らない場合も含めて、何らかの法則によって決定されている。

(3)法則に限らない場合も含めて、決定されている。

(4)非決定である。

さて、平野さんが求める説明は、どのような組み合わせについてでしょうか。

 

佐々木さん:「「我々が思考するとき、それは常に自由に思考するということであるか?//・・・ ラッセルの思考の三原則が実は誤りであるとすると、我々は謝った論理規則に拘束されていたことになり、実は自由な思考ではなかったということになります。

 我々の従っている論理規則に誤りがないということは、イスラム教徒がアッラーのカミがあるというのと同様に、完全に普遍的に真であると言い切れないことではないでしょうか。」

 

入江のコメント:ラッセルのいう思考の三原則が、間違いである可能性はあります。しかし、それが間違いであるとしても、その規則によって可能になる推論があります。もちろん、その推論は妥当しないことになりますが、しかし、推論は可能になります。

アッラーの神が存在しないことはあります。しかし、ムスリムにとっては、おそらくアッラーの神を想定しないでは世界を理解すること自体ができないのでしょう。その意味で、それは我々にとっての論理法則と同様に、反省しても、想定せざるを得ないものなのかもしれません。

論理法則や、人格の同一性について、我々が対案を示されて、対案が正しい可能性を認めることが出来たならば、そのとき「論理法則を守るべし」とか「人格の同一性を確保すべし」という規範は、対案の規範との間で選択されるべきものになるでしょう。

 ところで、思考の三原則が誤りであったとしても、我々はそれに拘束されていたことにはならないと思います。なぜなら、我々はその法則に一致して振舞っていたのではなくて、その法則に従っていたからです。先週述べたように、その法則に一致することを意図して振舞っていたのであって、その意味で、意図的に行為していたのです。このような意図的な行為の実践知において、我々は自分を自由だと意識しており、仮に思考法則が間違っていたとしても、我々が自由に意図的にその法則に従って行為していたことは否定されないからです。

 

三尾くん:「「自由であるべし」は基準になると思いますが、「自由になるべし」と同義で考えるのはいけないとおもいます。むしろ「自由になるべし」はまったく違うものだと思います。」

 

多田くん:「「自由であるべし」という命令は、ダブルバインドになると思われますが、私はラッセルのパラドクスと同型だと考えました。すなわち、自由であることを、選択することは、全ての選択の選択である。しかし、その選択はそれ自身選択であるとすれば、・・・」

 

杉之原くん:「「勝手にしろ」は「お前が何を使用が自分は干渉しないが、お前を助けたりはしないぞ!」という意味であり、他人に何かをやらせようとする命令ではないないと思います。ですから、「勝手にしろ!」といわれて勝手にしても、それは命令に従ったことにはならならないですから、不自由にはならないとおもいます。

 どうように、前後文脈から意味を限定すれば、「自由であるべし」も規範として成立しえるのではないでしょうか?」

入江コメント:「勝手にしろ」は文法的には命令形です。しかし、杉之原君の解釈が正しいならば(実際、正しいように思います)、それは命令ではなくて、約束などの行為拘束型の間接的発語内行為を行っていることになります。では、「自由であるべし」は、どのように理解すれば、よいのでしょうか。

 

原田くん:「・・・意図と行為は結びつかないということ。少なく見積もって、意図したとしても、行為に結びつかない場合が存在するといこと。

これを前提として、「論理法則に従って考えるべし」という規範は、たとえ部分的であっても反することは出来ないことが導かれる。

「意図して計算間違いをする」は「論理法則に従って考え」た後に、違う言明を語っているに過ぎない。間接的に「論理法則に従って考える」ことを前提している。

「意図せず計算間違いする」は意図が必ずしも行為に結びつかないことを示しているに過ぎない。そもそも「論理法則に従って考える」ということ自体をこの場合においても、意図していた、ということはできる。

以上より、「論理法則に従って考える」ことに反することは出来ない。

計算間違いは、「論理法則」んみは反しても、「論理法則に従って考える」ことには反しない可能性がある。」

 

木津くん:「「自由であるべし」といわれて人間はどのような言動をとるのか、考えるとより悩みました。」

入江のコメント:確かに、もし私がそのように言われたならば、私もなやむでしょう。フィヒテがどう考えたかを理解する上で参考になるのは、フィヒテが自由の反対をどのように考えたか、と言うことです。自由が善ならば、悪は何なのでしょうか。

 

 

 

フィヒテによる「悪」の理解(FW, IV, SS.199f.)

自然に由来する惰性Traegheit

そこからの最初の帰結:怠惰(faul)

第二の帰結:臆病(Feigheit

第三の帰結:不実(Falschheit)

 

 

■最後のまとめ:私が今考えている自由論■

選択意志の決定は、原則に従う。その原則も選択される。その原則の選択もまた、別の原則に従う。かくして、選択は不可能になる。選択は、原則に従うとしても、自由である。

つまり、選択は、原則に一致して振舞うことでなく、意図して原則に従うことなのである。そのとき、原則を自由に選択していることを意識しているといえるだろう。

 このときには、メタレベルの原則は意識していない。対象レベルの原則ですら意識していないかもしれない。しかし、このとき「あなたは原則1にしたがっていますか」と問われたならば、彼は即座に「そうです」と答えるだろう。しかし、メタレベルの原則については、そうではないだろう。

 ところで、どのような規範であれ、それを意識したときには、我々はそれから距離をとることができる。「それから距離をとる」とは、それに対する信頼を取り消し、その妥当性を疑い、その根拠を問うことができるということである。たとえば、我々は論理法則すら疑うことができるからである。そして、ほとんどの規範や規則については、それに従わないこともできる。

しかし、規範の中には、それを意識して、それを疑うことができ、その根拠を問うことができ、それに対する信頼を取り消すことができたとしても、それに従わないことが出来ないような規範があるように思われる。それは、論理法則と、自己同一であれ、という規範である。

 この規範に従うとき、私はこの規範に自由に従うのである。このとき、「私は自由である」「私は存在する」ということが背景知として成立している。